中小のツアー会社による広告と大手企業のアジアツアーによるバッシングにより、東南アジアや台湾、韓国旅行が悪い意味で有名になりました。有名になってしまったので、他のイタイ親父たちも「俺もアジアツアーに行きたい」と思うようになります。
東京や大阪、日本の有名観光地には観光バスが沢山やってきます。バスから降りてくるのは大量の中国人です。うるさい、マナーが悪い、つばを吐く、ゴミを捨てる、列に並ばないなど、中国人にウンザリしている日本人は数知れずです。
日本だけではなく、海外の観光地や有名な場所では、どこも中国人のやりたい放題が目立ちます。そのうんざりする中国人が、日本で夜の街の日本女性を連れていたり、欧米の先進国で白人女性を連れていたらどのように思うでしょうか。
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かつての日本人は中国人よりも酷かったのかもしれない
多くの日本人、先進国の欧米人は、その中国人と女性を冷ややかな目で見るでしょう。そして蔑むでしょう。1980年代の初頭、多くの日本人がアジアへ出向き、こういった残念な行為をここぞとばかりに行っていました。
マナーの悪い中国人にはウンザリですが、昔の日本人は今から考えれば今の中国人よりマナーも素行も酷かったのです。
戦争に負けてどん底から這い上がってきた日本人が豊かになり、アジアに出ればお金持ちになったかのような錯覚を体験できました。懐に日本円をタップリ入れて、経済格差のあるフィリピンで豪遊するのは、男の夢の花を咲かせてみたいという欲望でいっぱいでした。
しかしこうしたツアーは次第に少なくなっていきました。バッシングの影響はもちろんですが、言葉もわからないフィリピン人とただ過ごすだけでは何の面白みもありません。
やはり多くのイタイ親父たちが望むのは、フィリピーナとの心の繋がりでした。もちろんフィリピン人からすればお金目当てですが、日本人としては究極の擬似恋愛を楽しむことが出来ます。
10代、20代の頃でしたら、多少モテていた日本人もいますが、40代、50代に差し掛かると、若い頃にモテていたとは到底思えない風貌に変化しています。
もともとモテてこなかった男性が40代、50代になると、まさに見るも無残な風貌に変化し、女性が近寄ってきません。こういった男性は用事がない限り女性と話す機会さえありません。
ですから女性から相手にしてもらえるというだけで浮足立ってしまい、正気を失ってしまいます。1980年代からフィリピンパブが日本で全盛期を迎えますが、多くのアイタタ親父たちがフィリピーナと恋をして散っていきました。
今もフィリピーナに恋をしている中高年は沢山いますが、残念ながら殆どの人は典型的な勘違いオヤジです。今も昔も勘違いオヤジがいなくなることはありません。
1980年代初頭に入ると、エルミタはゴーゴーバーで溢れかえるようになりました。デル・ビラール通りには50~60件のバーがひしめいていました。今では全く想像できない光景です。
当時、ブルーハワイという店で系列のポリネシアンクラブを含めると500人以上のダンサーがいたそうです。1992年にマニラ市長が徹底的に取り締まりをして、エルミタからゴーゴーバーは排除されました。
時代の流れによって、夜の街も刻々と変化していきます。ゴーゴーバーが排除された頃から、日本にやってくるフィリピーナが激増します。
上記でも紹介しましたが、フィリピンパブが日本中にオープンし、昼間のレストランやスーパーに行けば、必ず香水をプンプンさせたフィリピーナ達が数人いたものです。
擬似恋愛を求めていた日本の親父達は、フィリピンパブにこぞって通いました。「とにかくフィリピンパブは面白い」と一部の親父達の間でもちきりでした。
日本に入国したフィリピン人は1981年で1万人を超え、1986年には2万人を、1988年にな4万人を超え、1991年のピーク時には6万人弱のフィリピン人が日本を訪れました。
続く
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